
これまでの再審請求の道のり



前回は福岡事件確定判決の問題点として、確定判決に採用された供述証拠の間にある齟齬を取り上げました。そのなかで軍服取引に参加した第三者の供述内容と確定判決の認定した事実に矛盾があること、また確定判決の認定した共謀から実行行為をおこなったというストーリーに様々な問題点があることを確認しました。今回はその後の再審請求、特に第6次再審請求に至るまでの道のりやその意義についてみていきたいと思います。 福岡高裁は1951年4月30日、西さん石井さんに死刑判決を言い渡しました。その後、最高裁へ上告しましたが1956年4月上告棄却され、西さん石井さんの死刑が確定しました。
しかし、石井さんはすぐ動き出します。刑が確定した3カ月後の1956年7月、石井さん単独で第1次再審請求をしました。しかし裁判所は、石井さんを聴取した警察官へ民事告訴をしただけでは証拠の偽造にあたらないこと。また供述が虚偽であったとする共犯者自身の証言書は、既に裁判で出された内容であるから新証拠にあたらないと棄却しました。
棄却から半年後1957年6月、再度石井さん単独による第2次再審請求がなされました。その理由として、第1次請求の際に民事告訴していた警察官死亡のため不起訴処分になったこと、共犯者聴取書もまた虚偽であり別に民事告訴していることを取り上げました。裁判所はいずれも、証拠の偽造・証言の虚偽に該当しないことを理由に棄却しました。



死刑確定からすぐに再審請求に動いた石井さん、動かない西さん。二人の対比は上告棄却になり死刑が確定した時、その側で2人を見ていた古川泰隆師の証言を想起させます。
「今から振り返りますと、上告が棄却された時に一瞬で2人が変わってしまう。その時のことははっきり覚えていますけれど、人間が変わったように、別人のように変わってしまった。石井は暴れるというか怒号するというか、(拘置所の)反則を繰り返す。西の方はそういうことは1つもなくて、ただ私の印象に残っているのは生ける屍、私は生ける屍ってこういう顔だなってその時思ったんです。すなわち表情のない顔ってあるんだと思いました。西さんって人は石井のように表に出さないだけに、ぐっとこらえる。それが表情に出てきたのでしょうけれど。茫然自失とした西さんの表情は忘れられません。」
当時、単独で再審請求をおこなっていた石井さんも次のような手紙を残しています。
「此の十六年間私は法律的にあらゆる手続きをとって来ました。再審願い二回、民事二回、人権擁護委員会に訴えに訴え、取れるだけの手続きは今もやっております。処が西君はそれを一回もしておりません。そして宗教関係にすがって来た傾向が強い。本願寺の法主や敬愛団への楚鐘寄贈等に力を入れていました。私はこれが一番不満でありました。…唯物質的、人的に恵まれぬ西君でしたので、私は気の毒に思い我慢して一人で戦って来ました。」
しかし西さんにとっても誤判を受け入れがたく、言えば言うほど誤解される冤罪の苦しみから、黙するほかに術はなかったのでしょう。西さんの残した文章に次のようなものがあります。
「無言は、否認を意味するものではなく、言えないのでもない。 無言は、おとなしいからでもなく、言いきらないからでもない。 無言は、無法な権力者への、精一杯の反抗、否そうでもない。 無言は、嘘に対する真実の絶叫である。」
無言の中にある西さんの真実の叫びを聞いた泰龍師は、西さん石井さんの再審助命を決意して立ち上がりました。
第6次再審請求に向けて動き



1964年になされた第3次再審請求は、石井さんにとっては3度目ですが西さんにとっては初めての再審請求です。再審請求理由書には、泰龍師が誤判を確信した検証結果として『真相究明書』が添付されていました。『真相究明書』では裁判記録を丹念に精査し、また事件関係者への調査から確定判決内容の不合理性を検証し、また共犯者聴取書の任意性の欠落や不公正な裁判の状況を明らかにするものでした。これらの主張の一部を裁判所は認めながら、しかし聴取書に虚偽なかったと棄却しました。
翌1965年に西さん単独でなされた第4次再審請求では、確定審の問題として、裁判官の終盤での急な交代や証拠調べをおこなっていない証拠での事実認定の問題を、そして、同年石井さん単独でなされた第5次再審請求では、共犯者自白の任意性に関する新証言と第1審福岡地裁での判決文の大幅な遅延を挙げました。しかし、いずれも新証拠なし再審請求事由を満たさないという棄却されてしまいました。
第6次再審請求は2005年5月、第5次請求からおよそ40年ぶりになされたものです。この第6次再審請求がこれまでの再審請求と大きく異なることが2つあります。1つが弁護団結成による法律専門家からの継続的な援助を初めて受けたものであること、もう1つが1975年最高裁白鳥決定後、はじめておこなわれた再審請求であるということです。今回は、1つ目の弁護団結成の過程をみていきたいとおもいます。



これまで5回の再審請求のうち1回2回は石井さんによる単独請求、3回から古川泰龍師の援助を受けての再審請求でしたが、泰龍師もまた法律の専門家ではありませんでした。福岡事件の冤罪を確信しながらも自身が法律家ではないことを逡巡していた泰龍師は、J.Sミル『自由論』翻訳や哲学者として有名な、神戸大学教授の塩尻公明氏の説得を受けて『真相究明書』を書き上げたのでした 。しかし渾身の『真相究明書』を添えた第3次再審請求は棄却されてしまいました。それでも再審助命を続けた理由について、泰龍師はインタビューで塩尻氏の言葉を挙げています。
「塩尻教授に相談したことがあるんです。…そしたらこう言いました、忘れもしません。そしてそれが私の励ましになったのですけれど『古川さんね、再審請求は実現しませんでしょう。そう思います。これから何年続けても見込みなしです』と言うわけです。『2人がでてくる見込みなし、それでも古川さんが続けている限りは死刑執行を阻止する力となるでしょう。もし古川さんがここで止めたら、直ちに死刑執行されると私は思う。この運動を続けているから彼らは死刑執行ができないでいる。そういう意味で、彼らの命を永らえるために、古川さん、希望のない運動だけれども、頑張ってもらう他ありません』」
「希望のない運動」だけれども、西さん・石井さんの命を永らえるための運動。運動の終わりはすなわち西さん石井さんの処刑であり、決して終わらせることのできない壮絶な決断です。泰龍師はその決断をしました。生活も仕事も投げ捨て取り組んだ再審助命運動に収入の道は絶たれ、運動資金は絶えず底を尽いていきました。奥様美智子さんの協力もあり質入れできるものは何もかも金に替え一家の家計と、さらに運動資金の金策に尽力しました。



しかし、第4回再審請求後1975年に西さんが突然処刑され、石井さんが無期懲役に減刑されることで石井さんの助命、死刑廃止へ運動がシフトしていきます。当時のことについて泰龍師はインタビューで次のように話しています。
「だって15年ね、一家を挙げて取り組んできたことでしょう。私はその時に思ったんですよ。私は振り返ってみれば、この仕事をするためこの世に生まれてきたんだな。そして西さんが処刑された今、私の仕事はこれでもう終わったと思ったんです。その位私の生きる支えになっていたわけですね。だから私の役目は処刑されてこれで終わってしまったと思ったことを忘れませんね。」
処刑当時のショックや社会への絶望を感じながらも、泰龍師そして石井さんは再審を諦めていませんでした。それは西さんからの言葉「冤罪で身に覚えのないような強盗殺人罪の濡れ衣を着せられて、死刑になるということの不幸、辛さ、悲しさというものがあるだろうか。こういう不幸は私だけでやめにしてほしい」「最後まで闘ってくれ」という言葉が残り続けていたからでした。1989年、石井さんが仮出所してから泰龍師は公判記録を取り寄せ、暗号のような記録を丹念に筆写して、西さんの死後再審に向けた準備を進めていました。石井さんが仮釈放されてから約15年後の1997年頃、当時大崎事件再審弁護人そしてハンセン病国賠訴訟弁護団代表であった八尋光秀弁護士との出会いにより、その後1999年福岡事件弁護団結成へ繋がるのです。

八尋弁護士は福岡事件について、次のように話しています。
「裁判官であり、検察官であり、弁護士がこの事件の確定審の審理をみたときにどう思うか。私は100人が100人「これは間違っている」「間違った審理がなされている」と思うだろうという確信を持っています。あとはそれを私たちが是正すべきなのか、見逃すべきなのかという問題だと思っています。」
八尋弁護士を中心にした福岡事件再審弁護団は、改めて公判記録を整理し直し、法律家の視点から福岡事件の問題点を第6次再審請求理由書にまとめました。この内容は次回以降にまわします。
残念ながら福岡事件第6次再審請求直前の2000年に泰龍師は亡くなってしまいました。しかし2005年5月、西さんの死後再審となる第6次再審請求へこぎつけたのでした。それは無実でありながらも急に処刑された西さんの無念、西さんの無念を引き継いで再審を諦めなかった泰龍師・石井さんの悲願、そして彼らの悲願を受け継いだ古川家の方々、八尋弁護士を中心とした福岡事件再審弁護団、多くの支援者が結集することで請求がなされたのでした。
今回は福岡事件第6次再審の道のりについて、泰龍師の長年の助命嘆願運動が初めて弁護団結成へと繋がった様子についてお伝えしました。白鳥決定についてはまた次回お話ししようとおもいます。報告は以上です。ご清聴ありがとうございました。