福岡事件を現在のものさしで測ろうとすると疑問に思うことが多いかと思われます。当時の日本はどのような状況だったのか、今ではありえない「ヤミ取引」「拳銃所持」に焦点を当ててみましょう。

終戦から2年後の1947年、日本では食糧難・物質不足がますます深刻になっていました。国外で敗戦を迎えた復員兵や引揚者およそ150万人が日本に戻ってくる一方、食料生産量は輸入の停止や国内の労働資材・労働力の不足などから激減。政府の統制物資がほぼ底をつき、配給制度は麻痺状態に陥っていたのです。

1946年、戦時中に施行された価格等統制令を引き継ぐかたちで「物価統制令」が発令され、物価高騰を抑えるため公定価格での取引が義務付けられました。しかし、国内の物質の絶対量が不足する状態は解消されませんでした。配給のみで生活しようとした山口良忠東京地裁判事が栄養失調で餓死したという報道が流れると、人々は危機感を募らせました。この危機感から必然的に公定ルートにのらない「ヤミ市」「ヤミ取引」が全国各地で横行。人々は違法行為と知りつつ「ヤミ市」に走り、衣類や所有品を食料・日用品に交換して飢えをしのぐしかありませんでした。

福岡でも「ヤミ市」は博多港周辺の朝鮮人バラックからはじまり、大浜地区から天神地区や渡辺通りへと増加し市内だけでも15ヵ所、1000店以上を占めていたといいます。品物は日持ちする乾物、卵、合成甘味料など食料品が中心でした。なかには「酒はマッカリ、カストリ、バクダンと得体のしれない名のものが横行した。いわずとしれた密造酒である。メチル入りの酒をヤミ市で飲んで、あえなく昇天、失明した不運な人も多かった。」[i]とまがい物を売る店も多かったといいます。

(画像左から博多港に寄港した引揚船の様子、中央は食糧難から起こった福岡でのデモの様子、右は福岡市内のヤミ市の様子。)

食料品に並んで置かれていたのが、衣料品や日用品でした。衣料品は戦中1938年に繊維製品配給消費統制によって生産段階での材料配給統制から「衣類切符」による販売制限、さらに戦争末期1943年には軍用品・輸出品以外の不要不急品の生産が禁止されていました[ii]。戦時中の統制によって繊維産業は壊滅的な打撃を受け、戦後直後は本土決戦に備えた軍事物品の民需開放によって衣類不足を賄っていました。軍事物品ですから主に保管していたものは軍服、軍手、軍靴などだったと推測されます。

しかし民需開放は必ずしも正式なものばかりではなく、中には終戦の混乱期に乗じた不正放出による「負け太り」のにわか成金も出現しました。大阪造幣局事件が全国第1号の発覚とされていますが、九州でも1947年に小倉造兵廠事件が発覚。当時の値段で約3億4000万円分の鋼鉄、兵器未完成品、その他物資が摘発されました。しかし、捜査では正規ルートでの放出物資か不正放出か確証がつかめず、捜査打ち切りや不起訴となることが多かったとされます。また捜査官も食糧難・物質不足を分かっているからこそ士気が下がる案件だったそうです[iii]

福岡事件の発端も関係者の話から、軍から引き下げられた軍服1000着の取引であったとされています。恐らく不正の軍需物品であるからこそ、流通ルートに「ヤミ取引」を選択したことは想像に難くありません。確定判決はこの軍服を「架空」と認定しましたが、当時の状況を鑑みるに決して荒唐無稽ではなかったことが分かります。

また、「ヤミ市」には戦争から持ち帰った拳銃もまた売買の対象だったそうです。日本が受諾したポツダム宣言には「日本国軍隊の完全なる武装解除」が規定されていました。GHQはその規定に則って武装解除、いわゆる「刀狩り」を実施。武装解除は軍部だけでなく民間レベルまで及びました。GHQは1945年9月24日「武器回収指令(SCAPIN No.50)」、続いて10月23日「武器引き渡し指令(SCAPIN No.181)」を発令し各県警察本部が民間の武器回収に入りました。多くの都道府県で数度に渡って回収を実施し、GHQは1946年3月を目途に武器回収の一応の区切りとした言われています。

「(軍を除いた民間レベルの武器回収について―引用者注)全国レベルにおける46年3月までの回収・引渡し状況は、内務省警保局警察統計資料によると、拳銃1万1916・機関銃2万2994・小銃39万5891」[iv]とされています。しかし、1946年3月以降も警察当局は武器回収を継続し、その都度銃類が回収されていることから、民間に流出した拳銃類が全て回収されずに残っていた可能性が見受けられます[v]

また、福岡事件から2年後の1949年に同じく福岡でアプレゲール事件が発生しました。この事件は、予科練のまま終戦を迎えた若者が拳銃で強盗事件を起こした事件です。この拳銃の出所について、ヤミ市で購入したという証言が残っています[vi]。現在は1958年に施行された銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)によって拳銃の所持自体違法とされます。ですが、戦後直後で拳銃が市井に残っていたころは、拳銃を所持することの感覚が今とは大きく違っていたのではないでしょうか。

(左から配給統制協力ビラを見つめる婦人、右はアプレゲール事件にて警察官が説得を試みている様子。)


[i] 毎日新聞『激動二十年 福岡県の戦後史』P86

[ii] 田中陽子「1937 年か ら1945 年までの戦時下における被服統制と供給事情」日本家庭科教育学会誌第52巻3号参照https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjahee/52/3/52_KJ00006579707/_pdf

また丹波新聞「衣料統制、一夜で廃業国家の略奪見守るだけ 戦後75年―語り継ぐ記憶」には衣類問屋だった証言者一家が衣料統制により一夜にして廃業したことが証言されているhttps://tanba.jp/2020/09/%E8%A1%A3%E6%96%99%E7%B5%B1%E5%88%B6%E3%80%81%E4%B8%80%E5%A4%9C%E3%81%A7%E5%BB%83%E6%A5%AD%E3%80%80%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%95%A5%E5%A5%AA%E8%A6%8B%E5%AE%88%E3%82%8B%E3%81%A0%E3%81%91%E3%80%80/

[iii] 毎日新聞前掲P106参照

[iv] 荒敬「占領期における非軍事化と武装解除」立教大学史苑 第51巻 第2号 P31

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[v] 荒敬前掲P32参照

1946年6月の回収実績をまとめとして、富山県は拳銃169件・銃砲弾薬類11万5187件、愛媛県は銃類1万3159件、熊本県は銃類2万7184件を回収したとされる。

[vi] 毎日新聞前掲P153参照

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