違法な取調べ

「渉外事件」としての福岡事件

終戦直後、今から70年以上前の有様は現在とは大きく異なるものでした。敗戦国日本には権力を握る占領軍以外にも、中国・朝鮮・台湾など様々な戦勝国人がいました。こうした戦勝国人の関係する事件は、「渉外事件」として日本人同士の事件とは別に扱われました。なぜなら、戦勝国人に対して日本は裁判権も逮捕権もなく、彼らには特別な地位が認められていたからです。「渉外事件」は日本の警察や裁判所が扱わない代わりに、占領軍MPが判断することになっていました[i]

福岡事件もまた、被害者の1人が華僑すなわち戦勝国人の「渉外事件」です。ですが、被疑者である西さんや石井さん達は全員日本人のため、例外的に日本の警察が逮捕することも可能とされていました。日本人被疑者の逮捕後の取扱いについて「迅速に即座に取調べをして関係書類を作成の上身柄と共に所在MPに送致すること」と通達されており、最終的な判断は占領軍に委ねられていました[ii]

戦勝国/敗戦国という構造のなかで起こった福岡事件は、様々な思惑に巻き込まれていくことになります。被疑者となった西さんと石井さんは戦時中に将校であり、殺害に使われた拳銃は日本軍幹部が使用していた型式でした。日本軍を想起させるような状況から、この事件は戦勝国民への反抗、今でいうテロ行為ではないかと統治する占領軍から疑われたのです。

もう一方で、この事件に怒りを募らせている集団がいました。それが被害者の属していた華僑集団です。同胞の命を奪った日本人達を許さない彼らの怒りが、捜査当局に影響を及ぼしたことは想像に難くありません。現に石井さんの証言のなかに、「刑事部屋には中国人が大勢つめかけており、大きな酒樽の前に大皿に山盛りした中華料理がおかれ、封筒に入った金一封を刑事たちに配っていた。」[ⅲ]と取調べの最中に刑事たちを買収する姿や、後の「糾問的な裁判」触れるように裁判が始まるとそこに押し掛ける華僑集団の姿が証言されています。

福岡に進駐した占領軍
米兵を乗せ福岡を走る人力車

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遅れた被疑者送致とその理由

占領軍のテロ疑いを晴らすだけなら、被疑者達の主張する誤殺をそのまま占領軍に伝えればよかったはずです。しかし石井さんの証言から、警察は占領軍の通達を破ってまで、強盗殺人というストーリーにこだわった様子がうかがえます。

「殺傷事件だけの供述なら逮捕の日にできていたはずです、私はその日に詳しく申し立てていますから。しかし、警察は強盗殺人の調書を作って米軍に報告せんとならんためにと誘導や拷問を色々とやったわけであります。…私は、松尾利三警部補に『(聴取書の―引用者注)間違っている部分は書き直してください』と、頼んだが『お前たちが警察の取調べに協力せんから、日数がかかり占領軍への報告が遅れて、何度も何度もあっちこっち行かんならん事となっているし、今日は千代田ビル(GHQ九州軍政本部-引用者注)の法廷に行かねばならんから、これ(聴取書-引用者注)に早く拇印を押せ』と言った」[ⅳ]

本来なら通達どおり「迅速に即座に」占領軍へ送られなければならない関係書類を、警察は石井さんなど被疑者が「協力」しないことを理由に時間をかけて作成し、彼らの身柄と共に占領軍へ送りました。結果として占領軍は、引き続き事件を監視下に置くことを条件に、被疑者たちの身柄を日本の警察に差し戻しました[ⅴ]。ですが警察の強盗殺人というストーリーに「協力」させるため、西さんや石井さん達には拷問・強要・誘導など、自白獲得のためのあらゆる手段が使用されました。当時は現行憲法施行(1947年5月3日)から1カ月経っていなかったとはいえ、戦時下そのままの違法な拷問がおこなわれたのです。

取調べでなされた強制・拷問の証言

事件の主犯として逮捕された西さんは、取調べの状況について次のように話しています。

「警察では私はほとんど調べられなかったのですが、ただ逮捕当時、私を知っている者(事件以前に西さんが誤った交通指導をしている警官を注意したことがあった―引用者注)がいて、『こいつを道場に連れて行って少し揉んでやろうや』とけしかけて、私をうしろ手錠にした者がいたので、『卑怯なことはするな、道場でもどこでも行くから、お前も官服を脱いでこい』と口喧嘩になりました。…こうした場合に前のこと、それも交通指導を間違えたことを棚に上げて、皆をそそのかすような言動を見て歯を喰いしばったものです。ロープでグルグル巻きにして逆吊りにされ、鼻からヤカンで水をそそがれたこともあります。江戸の仇を長崎でとられたわけです。ですから、取調べは私の場合は、私一人にワンサカたかり、面白半分です。」[ⅵ]

また石井さんも、次のように話しています。

「私は正直殺傷事件の起きたこと、強盗殺人などはしていないことなどを話したのですが、刑事たちは私が嘘を言っている、強盗殺人を供述しないと言って、それから嚇しにかかったのです。正座して、うしろに手錠をかけられた私の膝の下に警棒を二本押し込んで、膝を踏まえたり[ママ]、頬をたたくなどが嚇しでした。また警棒でノドをこすって、もうここまで出てきている、早くいえば痛い目を見ずにすむ(と言われることもありました)」[ⅶ]

被疑者7名のうち、拷問を受けたのは西さんと石井さんだけでした。それは、この2人が強盗殺人ストーリーを構成するうえで主犯の立場にあるためです。警察は断定を押し通すため、2人に供述を強いたことが想像できます。2人は頑なに強盗殺人ストーリーに抗いました。ですが、石井さんは押さえつけられての強制拇印により、思ってもない聴取書を取られてしまいました。

他の共犯者である黒川さんなど西さん・石井さんの友人5人は、20歳前後の青年でした。「事件概要」でみたとおり、事件発生直後から新聞では西さん主導の強盗殺人と報道されており、逮捕までの間に彼らはその報道に触れていました。そして、実際の取調べで西さんが拷問される姿を見せつけられたり、捜査官から互いの猜疑心を煽る誘導などを受けた末、新聞報道どおりに西さんを主犯とする自白をしてしまうこととなりました。

西さんの白紙拇印をしたという聴取書
取調べを受ける西さんの写真

[ⅰ] 福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』P669
[ⅱ]同『福岡県警察史 昭和前編』P670
[ⅲ]古川泰龍著『白と黒のあいだ』河出書房P296、あるいは古川泰龍著『真相究明書 九千万人のなかの孤独』花伝社P477にも同様の証言が掲載されている。
[ⅳ]同『真相究明書』P371
[ⅴ]内田博文編『冤罪・福岡事件』現代人分社P10及び八尋光秀編『緊急提言!刑事再審法改正と国会の責任』P57占領軍からは「本件事案は日本裁判に於いて処理せらるべし」「但し証拠品は裁判終了後直ちに送付されたし」という通達があったとしている。占領軍へどのような関係書類が送られ、どのような経緯で判断がなされたのか、米国におけるGHQ資料のアーカイブにその資料も残されていると思われるが、未だ見つかっていない。
[ⅵ]同『 白と黒のあいだ』P112、あるいは同『真相究明書』P477にも同様の証言がある。
[ⅶ]同『 白と黒のあいだ』P113、あるいは同『真相究明書』p108にも同様の証言がある。