『真相究明書』執筆と托鉢

古川泰龍という「光」

福岡事件の再審運動は、死刑囚教誨師として福岡拘置所に勤めていた古川泰龍師との出会いにより始まりました。古川師が教誨師となったのは1952年秋のことです。彼が主宰する雑誌「コスモス」を刑務所内で印刷したところ、受刑者が刷り損じを無許可で舎房に持ち帰り、心の悩みを鎮めていたことが発端でした。通常であれば反則として取上げられるところでしたが、刑務所長は逆に心の糧を求めることに感心し、古川師を所長推薦という異例のコースで教戒師に迎えました。そして翌1953年から古川師は死刑囚教誨師を務めることとなり、西さんと石井さんと出会います。

無実を訴える2人に対し最初は疑心暗鬼だった古川師でしたが、彼らの訴えを聞くうちに冤罪の疑いを持ち始めました。そして彼らと出会っておよそ10年後、古川師は西さんの無実を確信し、再審助命運動に身を投じる事を決意しました。当時の死刑執行は、刑の確定から執行まで平均で3年、長くても5~6年とされていました。また死刑囚は刑の確定後に恩赦願を中央厚生保護審査会に提出し、その願書が却下されたら刑の執行は間近という通例もありました。古川師が決断した1961年という年は、判決確定から4年後のことです。そして石井さんの出した恩赦願いは、1961年秋に却下されています。古川師の決断はその当初から時間との戦いだったのです。

石井さん母と拘置所を後にする古川泰隆師
拘置所での西さん
拘置所での石井さん

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家族の支えと『真相究明書』執筆

冤罪を確信した古川師は、直前まで迫っている西さんと石井さんの死刑執行を阻止するため法務大臣との面会を試みました。知人の塩尻公明氏と石井さんの妹と共に上京した古川師は、塩尻氏の助力で大臣との面会を果たします。そして、大臣から面会直前に西さんと石井さんの死刑執行決裁の書類が手元に届いていたという、危機一髪の状況だったことを教えてもらいました。古川氏は大臣に福岡事件の冤罪の疑いを伝えると共に、唯一残された法的手続きである再審請求をおこなうために冤罪の事実を集める決心をしました。

古川師の再審助命運動の決断を支えたのは、伴侶の美智子さんやご家族の協力でした。一家の家長が再審助命運動に没頭することによって、家族8名の生計が苦しくなることは明らかでした。逡巡していた古川師に美智子さんは「他の人にできないなら,あなたがやるしかありません。」と背中を押したといいます。彼女は家族の生計を支えるだけでなく、再審運動の経費も捻出するため、経営していた旅館を売払い、質入れできるものをすべて金に換えるため奔走しました。

冤罪の事実を訴えるため、そして一刻も早く処刑を止めるために古川師は『真相究明書』執筆に取り掛かりました。西さんや石井さんとの幾たびもの面会や文通、事件現場の実地調査、共犯者を含めた事件関係者の聞き取り調査。約2年間積み重ねた膨大な資料を家族や支援者の協力で整理し書き上げたものが、原稿用紙2千枚にも及ぶ大作『真相究明書-九千万人の中の孤独-』です。しかし『真相究明書』を脱稿しても、古川氏の手元に出版する資金はありませんでした。古川師は僧侶本来の姿に立ち返り、手甲脚絆にわらじを履きの雲水姿で全国行脚をおこない出版費用を捻出。法務大臣が替わるごとに『真相究明書』に嘆願書を添えて、死刑執行の延期を訴え続けました。

植木法務大臣との面会
現地調査の様子
托鉢に向かう古川師
古川師を支え続けたご家族
現存する『真相究明書』

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「針の穴にラクダを通す」とも言われた再審請求審

他方、古川師は西さんや石井さんと力を合わせ、1964年(第3次再審請求),1965年(第4次・第5次再審請求)と再審請求にこぎつけ、一刻も早い雪冤助命に尽力しました。しかし、当時の再審請求は「針の穴にラクダ(の糸)を通す」あるいは「開かずの門」と呼ばれ、再審開始の判断は非常に厳しいものでした。

当時の再審事情を象徴する事件として吉田翁事件が挙げられるでしょう。この事件は大正時代に起こった強盗殺人事件で、実行犯2人の自白に基づき首謀者として吉田石松氏が逮捕され、実行犯と共に無期懲役が確定しました。吉田氏は何度も再審請求をおこない、第5次請求に至って再審開始決定が下されました。この事件は発生から再審開始まで約半世紀経過していることから、アレクサンドル・デュマの小説『巌窟王(モンテ・クリスト伯)』になぞらえ「昭和の巌窟王事件」として日本に広く知られることになりました。吉田氏のおこなった5回もの再審請求の理由は、確定判決の証拠となった実行犯2人の供述が虚偽であることと一貫していました。こうした請求理由の一貫性にもかかわらず、第4次再審請求と第5次再審請求に対する裁判所の判断は大きく異なります。

まず1959年、第4次請求での棄却決定は次のようなものでした。
「判決の確定力を破り、法的安定性の要請を犠牲にして、なおかつ正義と人権の保障を全うしようとするものである以上、再審請求理由とされるものは、限定されたものでなければならないし、その請求理由じたいが、確定判決の存在をとうてい容認できないほどの充分の根拠をもつものでなければならない。」
すなわち、地裁→高裁→最高裁という三審制のなかで十分に審理された判決は、これ以上変更はない確定という力をもつのであり、それを覆そうとするのであれば、請求理由には単独で確定判決が容認できなくなるほどの強力な理由が求められるというものでした。

1961年、第5次請求での再審開始決定では、裁判所の考えに変化がうかがえます。
「あらたな証拠(請求理由-引用者注)の証拠価値については、あらたな証拠を有罪判決のあらゆる証拠との有機的な関連において総合的に判断すべきであって、これを既存の全証拠からきり離して、その証拠価値を判断することは許され(ない)」
第4次の棄却決定は強力な請求理由を求めていたのに対し、第5次再審開始決定は請求理由につき単独ではなく、確定判決で提出された全証拠(その中には有罪の証拠もあれば無罪の証拠もある)と共につき合わせたうえで、総合的に判断する方法を示しました。この決定により、1963年吉田氏に無罪判決が下されたことから、恐らく福岡事件も吉田翁事件の流れに乗ろうと、第3次、第4次、第5次再審請求がなされたのでしょう。しかし、吉田翁事件第5次再審開始決定が示した総合的判断は、当時まだ理論的基礎が構築されておらず、これは1975年の白鳥決定や財田川決定まで待たなければなりません。残念ながら福岡事件の再審請求は、いずれも棄却されてしまいました。

しかし、吉田翁事件をきっかけに、再審問題は社会の関心事となりました。衆議院法務委員会は、再審問題を取り上げて参考人として吉田石松氏本人を招待し、また再審の現状を研究・調査するための「再審制度調査小委員会」を設置。日弁連も「刑事訴訟法における再審規定改正要綱」を作成し、法務委員会にかけあって制度改革の具体化を進めていきました。こうした流れの中で、1967年に衆議院議員の神近市子氏・猪俣浩三氏か中心となって「死刑の確定判決を受けたものに対する再審の臨時特例の関する法律案」が上程されることになるのです。

無罪判決を喜ぶ吉田石松翁