事件概要

事件概要

戦後直後に起こった事件

1947年5月21日早朝、焼け野原から徐々に復興しつつあった博多の町で、日本人の衣類商と華僑協会の重鎮の2人の死体が発見されました。

被害者2人は死体として発見される前夜に軍服ヤミ取引に参加していたこと、その取引の場から手付金10万円と共に「西」という男が消えたことが警察の調べで判明しました。また死体には複数の凶器で傷つけられた跡があり、取引関係者の証言でも取引の商談場所で「西を外に呼び出す謎の男」の姿が目撃されていました。捜査当局は被害者2人の殺害と10万円持ち去りを一連の行為としてとらえ、「西」による強盗殺人事件と断定。「謎の男」もこの事件に関与しているとにらみ、捜索を続けました。

事件からおよそ1週間後の5月26日から6月6日にかけて、強盗殺人事件の首謀者として西武雄さん、殺人の実行役として石井健治郎さん、そして殺人のサポート役として黒川さん(仮名)をはじめとする西さんや石井さんの友人5名、計7名が順次逮捕されました。逮捕時、石井さんはすぐに被害者2人に発砲したことを認め、石井さんの仲間たちも被害者にとどめを刺したことを認めました。また西さんも手付金10万円を持ち帰ったことは認めました。しかし、全員が西さんの指示による犯行を否定し、石井さんの殺害行為と西さんの10万円の持ち帰り行為は一切関係がないと訴えました。

事件現場となった福岡工業試験場(正門からの写真)
死体発見直後の様子
事件現場の状況

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西さんの語るあの日の真相

それでは事件の晩、一体何があったのでしょうか?西さん達の弁明は次のようなものでした。

事件発生からさかのぼること1カ月前の4月末頃、西さんは被害者となった日本人商人から軍服ヤミ取引の用心棒を頼まれていました。日本人商人が取引の段取りを進めている間、待たされていた西さんは元部下・黒川さんへ護身用拳銃を贈るために拳銃売買をおこなっていました。拳銃売人の石井さんが西さんの滞在する福岡旅館を訪れたのは、5月20日のこと。この日は当初18日に予定されていた軍服ヤミ取引の延期日、しかも石井さんが来たのは取引集合時間の3時間ほど前でした。その場で拳銃売買が済んでしまえば良かったのですが、あいにく西さんは手持ちのお金がなかったため、用心棒の謝礼で拳銃を購入することを石井さんに話しました。

黒川さんが拳銃入手を急いでいたため、代金をすぐ渡せるように西さんは黒川さんと石井さんを連れて、軍服取引の商談場所である食堂に向かいました。2人を食堂の外に待たせ、西さんだけ店内に入ると、そこには売り手の日本人商人と買い手の華僑重鎮を中心とした華僑商人達が全員そろっていました。商談の結果、軍服千着を70万円で売買すること、その方法として先に10万円の手付金を支払い、残金60万円はトラックに積んだ軍服を引渡した後に支払うことが決まりました。

しかし、食堂にトラックを長時間近づけるのはヤミ取引発覚の恐れがあります。このため、唯一トラック隠し場所を知っている日本人商人が華僑重鎮を連れていき、トラックごと華僑重鎮に引き渡すことになりました。まず手付金を受け取った日本人商人と西さんは、華僑重鎮を伴って軍服の名目上の持主に手付金の保管をお願いしました。10万円を渡し終わると、日本人商人と華僑重鎮の2人はトラック隠し場所に向かいました。西さんは食堂に残ることになっていたため、待機していた黒川さんに日本人商人を手伝うよう指示し、自身は食堂で残った華僑商人たちと一緒にトラック引き渡しを待っていました。

ですが事態は急展開します。隠し場所に向かう途中、華僑重鎮と日本人商人が口論をはじめてしまいました。取引の事情を全く知らない黒川さんは、どうしていいか困惑してしまいます。西さんに助けを求めに行くには、ずいぶん遠くまで来てしまいました。そこで黒川さんは、様子を見にきた拳銃売人の石井さんに助けを求めました。「2人が急に喧嘩を始めてしまって抑えられない、助けてくれないか。」そう言われた石井さんは、黒川さんと共に口論の場所に急行します。その時です、激高した華僑重鎮が黒川さんと石井さんに向かって、急に拳銃を出す構えをしました。石井さんは反射的に、売る予定だった拳銃を発砲。日本人商人も華僑重鎮の仲間と勘違いして発砲してしまいました。そして銃声を合図に、石井さんと一緒にいた彼の友人たちも何かの抗争と勘違いして、倒れた2人に止めを刺してしまったのです。すべては一瞬の出来事でした。

大変なことになってしまった…。石井さんと黒川さんは、すぐに西さんに事態を知らせに向かいました。まず黒川さんが食堂にいる西さんを呼んだのですが、同じく食堂に残っていた華僑商人からトラック引渡しの状況を詰め寄られ、嘘に困って1人で逃げ出してしまいました。残された石井さんは、しかたなく西さんを食堂の外へ呼び出しました。2人の死亡を気まずそうに口にする石井さんに対し、西さんは急な出来事で気が動転してしまいました。茫然と立ちつくす西さんに、石井さんは誤殺の経緯を話します。ですが西さんにしてみれば、今日出会ったばかりの石井さんに言い訳されても、誤殺だなんて信用できません。先程までいた黒川さんがいなくなっていることも、石井さんに何かされたのではないかと西さんは不安に思いました。

ただ、西さんの脳裏には2つのことが浮かびました。ひとつは、石井さんを逃がしてしまったら事情が全く分からなくなるということ。もうひとつは名目上の持主に預けた手付金10万円のこと。殺人が絡んだ以上、手付金は買い手側に返すのが一番です。ただ、殺害を知ったらきっと激高するであろう華僑商人達にどう返せばいいのか。とはいえ、放置しておけば名目上の持主にも迷惑がかかるに違いありません。石井さんの言う誤殺は西さんのあずかり知らなかったことですし、取引の成功・失敗にかかわらず手付金は売り手側が持ち帰るべき慣習を考えれば、唯一売り手で残された西さんが持っていても変なことではありません。ひとまず、西さんは石井さんをうながして、手付金を持ち帰ることにしました。その際、名目上の持主へ2万円謝礼を払い、残り8万円を持ち帰ったのでした。

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断定したストーリーに固執する捜査当局

このように、警察の断定と西さん達の弁明では、西さんからの殺害指示の有無という点が大きく異なります。殺害指示が無かったならば、西さんは事件には無関係というほかありません。しかし西さんや石井さん達の必死の弁明にもかかわらず、捜査当局は彼らの声に耳を傾けることはありませんでした。

なぜなら捜査官は彼らの逮捕前から「金に窮した西さんが架空の軍服での取引をでっちあげ、石井さん達を計画に誘い込んで、取引関係者全員を殺害して代金を盗もうとした」という強盗殺人のストーリーを作り上げていたからです。当時の新聞も警察関係者の話として、事件発生直後から西さんが首謀者であるような記事が散見されます。また被害者の1人が中華民国・華僑協会の重鎮であったこともあり、事態は複雑化していきました。

5/21フクニチ夕刊 事件翌日の速報
5/22フクニチ 共犯者に関する記事
新聞記事では最初から西と石井は共犯とされていた

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