再審特例法と明暗

死刑囚再審特例法案までの道のり

1963年完成した『真相究明書』によって、福岡事件は次第に人々に認知されていきました。読者のなかから協力者があらわれ、また弁護士も再審請求に協力することが決まりました。ですがその翌年、1964年に古川師は思いがけず事件に巻き込まれることとなります。

それは全国指名手配犯の西口彰が来訪したことでした。西口は古川家に再審助命運動の資金が蓄えられていると考え、一家を殺害してこれを奪おうとしたのです。彼は東京の弁護士を名乗りましたが、古川師の娘・るり子さんの洞察力と家族の協力で変装を見破られ、通報によって逮捕されました。全国12万人の警察官を動員しても見つけ出せなかった凶悪犯が、10歳の少女に見破られたことが報道されると、全国に驚嘆の声が広がりました。そして西口逮捕と共に、福岡事件再審運動も全国へ知れ渡ることとなりました。

また、1964年は神近市子衆議院議員との出会いの年でもあります。2人の邂逅は、古川師が托鉢僧姿で各地を行脚している最中、神近氏の親戚の家を訪ねたことがきっかけでした。偶然そこに滞在していた神近氏は古川師と対面し、古川師が各地で支援を仰ぎながら20万筆もの署名を集めたことを、彼女は「国民の声」と感じたといいます。邂逅をきっかけに、神近氏は「死刑の確定判決を受けたものに対する再審の臨時特例の関する法律案」(以下、「死刑囚再審特例法案」)の作成に動き出しました。

弁護士に変装していた西口彰
逮捕時の新聞記事
西口逮捕への協力として大臣表彰を受ける古川ご一家

再審助命運動8年の結実

1968年、神近氏を含む衆議院議員8名は「死刑囚再審特例法案」を国会に上程しました。この法案は、戦後占領下の裁判で死刑判決を受けた6事件(福岡事件・帝銀事件・免田事件・財田川事件など)について、当時「開かずの門」と呼ばれていた再審に特例を設け、冤罪誤判の救済を図ろうとしたものでした。

占領下の裁判については、1952年施行の「平和条約の実施に伴う刑事判決の再審査等に関する法律」において、当時の日本で被告人の防御権が十分に確保されていなかったことが既に指摘されていました。「平和条約の…法律」は、戦時中に有罪判決を受けた連合国人に限ってゆるやかな要件で再審を認めていましたが、防御権が保障されていなかったのは連合国人だけではありません。こうした発想から生まれたのが「死刑囚再審特例法案」でした。

「死刑囚再審特例法案」は、事件を占領下のものと限定しつつも、再審の要件緩和という当時としては画期的な内容でした。この法案を成立させるため、対象事件の支援者はもとより、国会でも超党派の賛同が集まりました。しかし、法務省はこの法案に危機感を抱いて強力な反対運動を展開、与党もその意向を酌んでか多くが反対にまわりました。こう着状態になった審議のなかで一種の政治的妥協が図られ、最終的に西郷法務大臣が対象事件につき恩赦を積極的に活用することを明言し、その代わりに「死刑囚再審特例法案」を廃案にするという取引がおこなわれました。

再審と恩赦ではその意味に大きな隔たりがあります。恩赦は罪を認めて国が許すということであり、やっていないと無実を主張する再審請求とは意味が異なります。それでも、古川師は死刑執行を阻止した安堵と喜びを感じたそうです。恩赦が確定すれば西さんや石井さんの命が助かるだけでなく、無期懲役へ減刑されて将来仮釈放の道も開かれます。古川師は運動を再審助命から恩赦実現に切替え、更に力を注ぎ続けました。ですが、彼らの是非が決定するには、さらに6年もの歳月を待たねばなりませんでした。

社会党 神近市子氏
再審特例法案制定に神近氏は尽力した
恩赦を約束した西郷吉之助法相

2人の明暗

恩赦を言明されながらも待たされた6年間、この長い期間は西さんや石井さん、そして古川師にとって苦悩の期間でした。「死刑囚再審特例法案」対象事件だったものの中には恩赦が言い渡されないことに疑心暗鬼になり、再審に転じるものも出ていました。同様に再審に転じれば、西さんや石井さんの死刑執行が早まってしまうかもしれない。しかしながら恩赦の道を探って、法務省に何度も陳情しに行っても全く手ごたえがない。政府の不確実な対応のなかで、古川師が何よりも心配したのは西さんの体調でした。西さんの体調は、確実に悪化の一途を辿っていました。「死刑囚再審特例法案」提出のときですら、西さんは緑内障の緊急手術が必要な状態で、肥満によって心臓圧迫も心配されていたのです。

しかし、古川師や多くの支援者の期待を裏切る形で、1975年6月17日西さんは突如として刑場の露へと消えてしまいました。当時のならわしでは、死刑執行は数日前に告げられ、家族や同じ拘置所の死刑囚との最後のお別れがなされていました。ですが、西さんの処刑は、告知から執行まで20分という異例の短さで執行されてしまったのです。石井さんも西さんと最後に会うことが叶わず、拘置所職員から「最後まで闘うように」という遺言を受け取りました。そして同時に、石井さん自身は恩赦で無期に減刑されたことも伝えられました。恩赦請願で上京していた古川師が2人の明暗を知ったのは、死刑が執行された後のことでした。

西さんの処刑された1975年は、再審開始決定に関する画期的な最高裁決定が出された年でもありました。いわゆる「白鳥決定」です。西さん処刑のおおよそ1カ月前、5月20日に出されたこの決定は、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則を礎に、確定有罪判決の全証拠との総合評価をおこなったうえで、有罪に疑問が残るようなら再審を開始すべきといった新たな基準を示しました(総合評価に関しては「」参照)。この決定後、中央保護審査会の動きは早く、6月6日には西さんの恩赦不相応が決定され、10日後に急遽執行されています。「白鳥決定」の示した再審の門戸開放を目前にしながら、西さんは再審助命の望みを絶たれてしまったのです。

西さんの遺骨を抱えて事件現場を歩く
シュバイツァー寺本堂で営まれた西武雄死刑囚運動葬

西さん亡き後

西さんの執行後、古川師は西さんの葬儀の会葬者へ次のような挨拶を送っています。
「28年間の獄窓、気が遠くなるような永い歳月でした。さぞかし出たかったでしょうに、白骨として出すとは…国はほんとうにむごいことをするものです。…西君はいまや冤罪の怒りそのもの、雪冤の鬼と化して、自らこの運動の陣頭に立っているにちがいありません。私は無力感に打ちひしがれながらも、彼のあとに続かなければ…とお別れの日に堅く心に誓いました。」
しかし挨拶の誓いとは裏腹に、古川師は救出できなかった無力感に打ちひしがれていました。古川師にとってみれば、西さんを失ったことは半身をもぎ取られたも同然だったそうです。悲痛な想いから、師はこれ以降世捨て人としてひげを蓄え、ショックで減った体重は生涯元に戻ることはありませんでした。

一方、無期に減刑された石井さんは、1989年12月に仮釈放されました。42年7カ月戦後の人生をほとんどを獄中で暮らした彼は、出所時には72歳。禿げ上がった頭、抜けた歯、腰も曲がり老人となっていた彼の第二の人生は、古川師の生命山シュバイツァー寺で再出発することになりました。石井さん仮出所後も、古川師は西さんの死後再審の準備を続け、1994年八尋光秀弁護士との出会いをきっかけに弁護団が誕生しました。さらに映画「デッドマン・ウォーキング」の原作者で、世界的な死刑廃止運動家シスター・ヘレン・プレジャンが再審運動への全面的な協力を約束したのでした。

西さんの死後再審が現実味を帯びてきた2000年夏、古川師はこの世を去りました。悲しみ嘆く家族のもとに多くの人が駆け付けるなか、かつて古川師と約束をしたシスター・ヘレンも来日しました。彼女は家族に寄り添いつつ、福岡事件再審キャンペーンを提案し、その時には彼女も再来日することを宣言しました。古川師の遺志を引き継いだ家族は、シスター・ヘレンと共に2002年から毎年キャンペーンをスタートさせ、全国に支援の輪を広げ続けました。

ルーマニアで開かれた宗教者会議にて出会った古川師とシスターヘレン
古川師亡き後に提出された第6次再審請求