なぜ今福岡事件なのか?

はじめまして。私はこれまで福岡事件の講演会のお手伝いをしていたのですが、その際に取材に来た新聞記者の方や古くからの福岡事件の支援者の方から、「若い人が福岡事件なんて古い事件の支援をされるなんて珍しいね」「なんで福岡事件の支援をしているの?」と不思議そうに聞かれることがありました。

当時の私は、自分がなぜ福岡事件を支援しているのかちゃんと言い表すことができなくて、よく石井さんの話をしていました。かつて私が福岡事件を知ったその年の夏休みに、在りし日の石井さんにお会いすることができました。石井さんは1975年に無期懲役に減刑された後に、1989年仮釈放を受けて熊本県の生命山シュバイツァー寺に身を寄せていました。私がお会いした時には3度もの脳梗塞を発症しており構音障害のある声や筋力の低下により車いすでの移動を余儀なくされていました。質問に対し一音ずつゆっくりと返答されるなか、西さんのことを聞いた時だけは「西君は関係ない」と急にしっかりとお話しされたことを覚えています。ですがその年の秋、お会いしてからおよそ2か月後に石井さんはお亡くなりになってしまったのです。葬儀に参加させていただいて、火葬してもなおしっかりとした石井さんのお骨を拾いながら、事件関係者の方々が時間の経過で無情にもいなくなる中で、この事件を風化させてはいけないと決意したのはウソではありません。ですが、それだけが福岡事件を支援する理由かと言われると、そうでもないと思います。

西さんからみた福岡事件

それでは福岡事件の問題とは一体何なのか?そのことをお話しする前に、もう一度事件概要を振り返ってみましょう。先に宮本先生から事件概要の話がありましたから、私からは西さんからみた福岡事件を西さんの証言をもとに再現したいと思います。戦後直後の1947年、福岡はGHQ九州連合国軍司令部の中心地であり、また大陸から戻ってきた日本人の引揚船の玄関口であると同時に、中国・朝鮮からの徴用者が大陸に戻る玄関口でもありました。1947年4月末頃には日本初の参議院選挙と第23回衆議院選挙のダブル選挙、そして同5月3日には現在の日本国憲法施行と、福岡だけでなく日本全国、終戦から2年の時を経て復興しつつありました。

事件に関連して、現在との違いを認識しておかなければならないことがヤミ取引と拳銃所持です。当時はまだ日用品の配給制が敷かれており、闇米を拒否し配給食糧のみで餓死した山口判事が亡くなったのも福岡事件と同年1947年の夏のことです。配給のみでは生活ができずヤミ取引が生活を支えている状況でした。また拳銃所持については1947年当時も銃砲等所持禁止令違反がありましたから、所持自体違反ですし、取引が日常的に行われていたのか資料も残っていません。ですが戦地から持ち帰った拳銃が「遺品拳銃」として現在も各地の警察から呼びかけ続けられていることを考えると、終戦当時はこうした持ち帰ったまま、警察に届け出る前の拳銃が多かったのかと思います。

①事件から1カ月前の4月末頃、福岡にて西さんは被害者となった日本人商人熊本さんから軍服ヤミ取引の用心棒を頼まれていました。熊本さんが軍服取引の段取りを進めている間、待たされていた西さんは西さんが終戦直後に経営していた劇癌芸能社の元部下・黒川(仮名)さんへ護身用拳銃を贈るために拳銃売買をおこなっていました。

②拳銃売人の石井さんが西さんの滞在する福岡旅館を訪れたのは、事件の起こった5月20日のこと、しかも取引集合時間の3時間ほど前でした。その場で拳銃売買が済んでしまえば良かったのですが、あいにく西さんは手持ちのお金がなかったため、軍服民取引の用心棒の謝礼で拳銃を購入することを石井さんに話しました。

③黒川さんが拳銃入手を急いでいたため、代金をすぐ渡せるように西さんは黒川さんと石井さんを連れて、軍服取引の商談場所である浜利という食堂に向かいました。2人を食堂の外に待たせ、西さんだけ店内に入ると、そこには売り手の日本人商人熊本さんと買い手の華僑重鎮翁さんを中心とした華僑商人達が全員そろっていました。熊本さんと翁さんとの商談の結果、軍服千着を70万円で売買すること、その方法として先に10万円の手付金を支払い、残金60万円はトラックに積んだ軍服を引渡した後に支払うことが決まりました。しかし、食堂にトラックを長時間近づけるのはヤミ取引発覚の恐れがあります。このため、唯一トラック隠し場所を知っている熊本さんが翁さんをその場所まで連れていき、トラックごと翁さんに引き渡すことになりました。まず手付金を受け取った熊本さんと西さんは、翁さんを伴って軍服の名目上の持主(第三者)に手付金の保管をお願いしました。10万円を渡し終わると、熊本さんと翁さんの2人はトラック隠し場所に向かいました。西さんは食堂に残ることになっていたため、外で待機していた黒川さんに熊本さんを手伝うよう指示し、自身は食堂で残った華僑商人たちと一緒にトラック引き渡しを待っていました。この待っている間に殺害が起こってしまいます。

④しばらくすると血相を変えた黒川さんが食堂にいる西さんを呼んだのですが、同じく食堂に残っていた華僑商人からトラック引渡しの状況を詰め寄られ、嘘に困って1人で逃げ出してしまいました。その次に石井さんが、西さんを食堂の外へ呼び出しました。2人の死亡を気まずそうに口にする石井さんに対し、西さんは急な出来事で気が動転してしまいました。茫然と立ちつくす西さんに、石井さんは誤殺の経緯を話します。ですが西さんにしてみれば、今日出会ったばかりの石井さんに言い訳されても、誤って殺しただなんて信用できません。先程までいた黒川さんがいなくなっていることも、石井さんに何かされたのではないかと西さんは不安に思いました。ただ、西さんの脳裏には2つのことが浮かびました。ひとつは、石井さんをこの場で逃がしてしまったら事情が全く分からなくなるということ。もうひとつは名目上の持主(第三者)に預けた手付金10万円のこと。殺人が絡んだ以上、手付金は買い手側に返すのが一番です。ただ、殺害を知ったらきっと激高するだろう華僑商人達にどう返せばいいのか。とはいえ、放置しておけば名目上の持主(第三者)にも迷惑がかかるに違いありません。石井さんの言う誤殺は西さんのあずかり知らなかったことですし、取引の成功・失敗にかかわらず手付金は売り手側が持ち帰るべき慣習を考えれば、唯一売り手で残された西さんが持っていても変なことではありません。ひとまず、西さんは石井さんをうながして、手付金を持ち帰ることにしました。その際、名目上の持主(第三者)へ2万円謝礼を払い、残り8万円を持ち帰ったのでした。

このように、西さんからしてみれば、軍服取引中に待っているように指示していた黒川さんと石井さんが急に邪魔をしてきたわけで、弟分の黒川さんが関与しているかもしれない以上無視することもできなかったわけです。しかし最後の8万円の持ち帰りが翌日死体発見後に事情聴取を受けた華僑商人達の証言に挙がり、新聞では初期段階の報道から西さんの犯行を示唆する記事が散見されます。

確定判決の問題

事件からおよそ1週間後の5月26日から6月6日にかけて、強盗殺人事件の首謀者として西武雄さん、殺人の実行役として石井健治郎さん、そして殺人のサポート役として黒川さんをはじめとする西さんや石井さんの友人5名、合計7名が順次逮捕されました。1948年2月27日の第一審で強盗殺人計画の首謀者とされた西さんは、実行犯の石井さんと共に死刑判決。他の共犯者達もそれぞれ懲役刑が下されました。続く1951年4月30日の控訴審判決は共犯者の罪科に変更があったものの、ほとんど第1審判決をなぞる内容であり最終的に最高裁判所に上告しましたが棄却されたため、福岡事件の確定有罪判決は福岡高裁判決となります。

確定判決は時系列から、大きく4点に分かれます。①4月末から西さんと黒川さんが「強盗殺人計画」を共謀し、その事前準備として日本人商人熊本さんを介して軍服の買い手を探し、他方拳銃入手の斡旋を共犯者に依頼した。②事件当日、福岡旅館に来た拳銃売人の石井さんと拳銃売買をおこないつつ、石井さんを「強盗殺人計画」に誘い共謀した。③西さんは軍服ヤミ取引に参加し、他の華僑商人達と食堂に残るなか、黒川さんと石井さんは「強盗殺人計画」どおりに日本人商人と華僑重鎮を外に連れ出して殺害した。④被害者殺害後、黒川さんや石井さんが食堂に戻り、軍服積込完了の嘘報告をした。これを受けて、西さんが華僑商人達に残金を請求するも断られ逃走した。

この確定判決の認定事実は先ほどお話しした西さんからみた福岡事件と大きく様相が違います。用心棒として頼まれていた西さんが軍服取引の主催者となっていますし、何より西さんから黒川さん、石井さんへの「強盗殺人計画」の共謀によって、石井さんが熊本さんと翁さんを殺害。そして手付金10万円を入手したという認定がなされています。その結果とし西さんと石井さんへ死刑、黒川さんへ懲役15年の判決。その他の共犯者にも懲役5年から6年の判決が下されています。

共謀共同正犯の問題

適用法令として判決に挙げられているのが3点、まず刑法240条、強盗殺人罪。これは熊本さんと翁さんの殺害によって現金を持ち去った行為が該当するとされています。2点目が刑法55条の連続犯の規定。こちらは現在の刑法では削除済の項目ですが、刑罰の併合に関する規定です。3つ目の刑法60条は複数の人が共同して犯罪を実行したという共犯の規定になります。確定判決において西さんは共謀のみで殺害の実行行為に参加してないことになっていますから、単なる共犯(共同正犯)ではなく、共謀共同正犯の適応となります。

共謀共同正犯は「直輸入の色彩が強い学会の刑法解釈学に対し日本独自の「固有法」の立場に立つ刑事判例」として、実定法上の規定がないまま明治時代の大審院判例によって形成され、現在も判例で継承されている理論です。内容としては数人の人が共謀を経て犯罪の実行行為をおこなった場合、共謀に参加しながらも実行を分担しなかった者も実行行為者と同じ刑に処すというもので、2017年6月に国会で成立した、いわゆる共謀罪の創設を含む改正組織的犯罪処罰法にも共通する「共謀」という概念が使用されています。改正組織犯罪処罰法にも共通して言えることですが、共謀共同正犯の問題はその処罰範囲が無制限に拡大する危険性を孕んでいることです。当初の大審院判決では詐欺罪や恐喝罪に限って頭脳役と実行役のいるような犯罪に対し、頭脳役となる知能犯を中心に処罰するために共謀共同正犯を認めるという例外的な判断からスタートしました。その後「共同の意思」を有している人同士であれば処罰可能という論拠の下、強盗罪や殺人罪にも範囲拡大。「共同の意思」の認定に必要な共謀についても、事前共謀の他、現場共謀、順次共謀、黙示の共謀までも認めることとなりました。

判例が自分勝手な法解釈によって処罰範囲を拡大するなんて、憲法31条を根拠とする近代刑法原則の明確性の原則に違反する疑いが大いにあります。そしてこうした法解釈による処罰拡大は、戦中に猛威をふるった治安維持法との共通点を見出します。概念の中心部分が空白だからこそ法拡大の余地が生じ、様々な個別事案を飲み込んでいく。まるで中心気圧が低い台風のように、共謀共同正犯なら「共謀」の概念、治安維持法なら「国体変革」の概念という中心概念に何ら定義づけがなされないからこそ、台風の通る周囲に甚大な被害を生み出すのではないかという疑念をもっています。こうした共謀共同正犯の問題を1番目にやらないといけないと思っています。

共犯者自白の問題

さて、福岡事件確定判決に戻りましょう。確定判決が挙示する証拠は合計31点。このうち客観的証拠3点、供述証拠が28点になります。客観的証拠の内容は1点目が強制処分による判事の検証調書。こちらは現場検証の様子として、現場における被害者2名の死体の場所や死体周辺に落ちていた物の詳細。2点目は鑑定人医師の各死体解剖鑑定書。熊本さんの死体にあった胸部の射創、頸動脈を完全に切断する左頸部切創、背部から胸部に貫く2か所の刺創の詳細。そして翁さんの死体の胸部の射創と左右頸部切創の詳細が記載されています。最後の3点目は、領地目録として殺害に使用された拳銃1挺(証第9号)及び共犯者の所持していた壊れた14年式拳銃1挺(証第11号)それぞれ領置した旨の記載があります。これらの客観的証拠はご覧いただくと分かるように、石井さんや他の共犯者達が被害者2名を殺害した事実を示すものの、肝心の西さんが黒川さんや石井さんに話したとされる「強盗殺人計画」の事前共謀の存在をうかがわせるものではありません。したがって、残りの28点の供述証拠、その半数以上を占める17点の黒川さんや石井さんを含めた共犯者による自白こそが裁判所で認定された事実を支える重要な証拠になります。

供述証拠という枠組みの中で、自己に不利益となる犯罪事実の全部または一部を認める供述を自白といいます。憲法38条2項及び刑事訴訟法319条1項は自白法則として、強制、拷問、強迫または不当に長く拘留された後の自白、その他任意になされたものではない自白を証拠として使用してはいけないとしています。そして刑訴法319条2項は自白の補強法則として、被告人の自白という証拠のみで有罪としてはいけないと定めています。刑事訴訟法318条において各証拠の取捨選択やその証拠による事実認定については、裁判官の判断たる自由心象にゆだねることが記載されていますが、補強法則は裁判官の自由心象主義の例外として強力な威力を発揮するものです。例外が認められる理由として、一般には自白の強要防止による誤判を防ぐことが挙げられます。

しかし、この補強法則には共犯者の自白は含まれません。そのため判例では被告人の自白+共犯者自白や共犯者による自白のみで、その内容を吟味することは勿論ですが、有罪を下すことができるとしています。ですが、補強法則が自白の強要防止を理由に成立するのであれば、なぜ共犯者自白は含まれないのでしょうか?自白が生み出される環境について、警察留置施設という密室司法・被疑者段階で保釈制度がなく取調べ受忍義務を強要される人質司法という過酷な環境下で、多くの自白が生まれていることを考えれば、本人であろうと共犯者であろうと自白強要の危険性は同じではないかなと思います。憲法36条は拷問の絶対的禁止を規定し、同38条にて自白強要を否定しているにもかかわらず、強要可能なフィールドが用意されているし、拷問が証明されないことを理由に証拠採用されている状況は明らかに憲法を蔑ろにしているのではないかと思います。こうした共犯者自白の問題を2番目にやろうと思っています。

共謀共同正犯と共犯者自白の相互関連性と憲法違反について

共謀共同正犯の問題と共犯者自白の問題、この二つは密接に関係していることが分かります。共謀共同正犯のうち共謀を立証するために、何が必要なのか?例えば会社でしたら会議などで話した内容を議事録にしますが、日常業務での指示などはメモやボイスレコーダーでの録音で残さない限り残るものではありません。ましてや犯罪と認識しての会話なら、証拠が残ること自体少ないのではないでしょうか。このため自白法則で本人の自白だけで有罪が獲得できない以上、捜査機関は共犯者自白に目を向けることは想像に難くありません。そして逆に、共謀共同正犯のように自白がないと立証できない犯罪があるからこそ、捜査機関や検察は自白を有力視しなければならず、自白強要を防ぐ環境づくりといった憲法要請の実現が達成されないのではないかとも思います。この共謀共同正犯と共犯者自白の関連性はそれぞれの問題を紐解きながら、みえてくればいいなと思っています。

最期になりますが、福岡事件は確かに古い事件です。事件発生が戦後直後1947年なんて今から78年も前です。ですが、福岡事件が発生した1947年5月20日のおよそ20日前、1947年5月3日に現行憲法が施行されています。5月3日は、現在でも憲法記念日として祝日になっていますね。したがって、福岡事件の起こった時と現在の私たちは同じ憲法下にいるのですから、西さん達も私たちと同じ権利が認められていたわけです。

昨年のことになりますが、2024年の7月に最高裁判所にてハンセン病患者さんへの強制的な不妊手術、その不妊手術の根拠となった旧優生保護法の憲法違反が認められました。戦後13例目の最高裁判所による憲法違反判決に対し、最高裁判所は、除斥期間の適用を制限するとの統一的判断を示し、国に対して被害者への損害賠償の支払いを命じました。旧優生保護法は1948に施行され1996年に廃止されています。旧優生保護法の施行と福岡事件の発生は1年しか違いません。旧優生保護法の判決は時間経過に関係なく、現行憲法下での違反をきちんと最高裁判所が判断したものと評価できるでしょう。

福岡事件も現行憲法下の事件ですから憲法違反があればその再審の可能性があります。刑法や刑事訴訟法は変遷がありますが、憲法第98条はその最高法規性をうたっているわけですから、1947年5月3日以降いくつかの変遷があったとしても刑法・刑訴法は現行憲法の下にあることになります。もし、戦後最初の死刑囚を生み出した福岡事件で憲法違反が生じているとすれば、日本戦後司法は最初から憲法と刑事法との溝が解消されないまま、現在まで至っている可能性があるともいえるかもしれません。福岡事件を通じて憲法の実践、人権感覚の涵養のあり方を考えていけたらと思っています。

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